雨の保管庫
その町では、雨の日になると古い記憶を思い出しやすくなると言われていた。
科学的根拠はない。
湿度がどうとか、気圧がどうとか、色々説明する人もいたが、結局のところ誰にも分からなかった。
ただ、長く住んでいる人間は皆、何となく知っていた。
雨の日は昔が近い。
そういう町だった。
私がそこへ来たのは三年前である。
仕事の都合だった。
駅前に小さな資料館があり、私はそこで記録整理をしていた。
郷土資料。
古新聞。
昔の映像テープ。
誰も見なくなったものを分類し、保存する仕事である。
退屈だが嫌いではなかった。
資料館は海の近くにあった。
古いコンクリート建築で、窓が少ない。
昼間でも少し薄暗い。
雨の日になると、建物全体が静かに湿る。
紙の匂いが強くなる。
私はその匂いが好きだった。
職員は五人しかいない。
館長。
事務の女性。
アルバイトの大学生。
清掃員の老人。
そして私である。
毎日ほとんど同じだった。
朝、鍵を開ける。
古い除湿機の音を聞く。
段ボール箱を開ける。
分類する。
昼になる。
夕方になる。
閉館する。
そういう生活だった。
最初に違和感を覚えたのは、去年の梅雨だったと思う。
私は地下保管庫で、古いカセットテープを整理していた。
ラベルが剥がれ、内容不明になっているものが大量にある。
確認のため、再生する必要があった。
私は一つのテープをデッキへ入れた。
ノイズが流れる。
しばらく無音。
それから、女の声が聞こえた。
『今日は雨です』
若い声だった。
静かな口調。
『だから、少し安心しています』
私は手を止めた。
声が妙に近かったのである。
まるで耳元で話しているみたいだった。
『晴れの日は、遠くなるので』
そこで録音は終わった。
私はラベルを確認した。
何も書かれていない。
年代不明。
録音者不明。
ただ古いだけだった。
気味が悪かったが、特に深く考えなかった。
資料館には変なものが多い。
誰が何のために残したのか分からない記録が、山ほどある。
それから数日後、私は町の喫茶店で、一人の女と知り合った。
名前は真壁という。
三十代くらい。
細い黒い傘を持っていた。
雨の日だった。
窓際の席で、彼女は本を読んでいた。
店内が混んでいたので、相席になったのである。
「よく降りますね」
私が言うと、彼女は少し笑った。
「降っている方が、この町らしいです」
静かな声だった。
私は妙な既視感を覚えた。
だが理由が分からない。
どこかで会った気もする。
しかし思い出せなかった。
「この辺の人ですか」
「昔は」
彼女は答えた。
「今は、たまに戻ってくるだけです」
「実家とか?」
「そういう感じです」
曖昧な答えだった。
だが不思議と会話は続いた。
彼女は資料館の存在を知っていた。
むしろ妙に詳しかった。
「地下、寒いでしょう」
「ええ」
「昔、もっと広かったんですよ」
「そうなんですか」
「閉鎖された区画があります」
私は驚いた。
その話は職員でもあまり知らない。
確かに地下には封鎖された扉がある。
だが老朽化による立入禁止だと聞いていた。
「詳しいんですね」
彼女は少し黙った。
「昔、よく行っていたので」
それから時々、私たちは会うようになった。
雨の日が多かった。
まるで天気が予定を合わせているみたいだった。
真壁は変わった女だった。
現在の話をほとんどしない。
仕事。
家族。
生活。
そういう具体的な話題を避ける。
代わりに、記憶についてよく話した。
「思い出って、保存できると思いますか」
ある日、彼女はそう聞いた。
「写真とか日記なら」
「そうじゃなくて」
彼女は窓の外を見る。
雨粒がガラスを流れていた。
「感情ごと」
私は答えられなかった。
彼女は時々、こういう妙な質問をする。
だが不快ではなかった。
むしろ、その曖昧さが心地よかった。
夏の終わり頃、資料館の地下で停電が起きた。
突然、照明が消えたのである。
非常灯だけが点灯する。
私は暗い通路を歩きながら、管理室へ向かっていた。
その途中、封鎖区画の前を通った。
そして気づいた。
扉が少し開いている。
私は立ち止まった。
隙間の向こうは暗い。
冷たい空気だけが流れてくる。
本来なら、無視するべきだった。
だが私は妙に気になった。
中へ入った。
懐中電灯で照らす。
古い部屋だった。
棚が並んでいる。
段ボール箱。
録音機器。
そして大量のテープ。
驚いたのは、全部に同じ日付が書かれていたことである。
『二〇〇七年六月一七日』
私は一本を手に取った。
再生機へ入れる。
ノイズ。
それから声。
『今日は雨です』
私は凍りついた。
あの声だった。
『だから、少し安心しています』
真壁の声に似ていた。
いや、同じだった。
私は次々テープを確認した。
全部、同じ女の声だった。
内容は少しずつ違う。
『今日は海が近い』
『今日は昔を忘れない』
『今日は自分が誰か分かる』
意味不明だった。
だが、そのどれもが妙に切実だった。
私は背後の気配に気づいた。
振り向く。
真壁が立っていた。
暗闇の中で、静かにこちらを見ている。
「入ったんですね」
怒っている感じではなかった。
むしろ、少し諦めたような声だった。
「これは何なんですか」
私は聞いた。
真壁は棚を見る。
「保管庫です」
「何の」
彼女は少し考えた。
「人の」
それだけ言った。
私は意味が分からなかった。
「昔、この町には研究施設がありました」
彼女は静かに話し始めた。
「記憶保存の」
私は笑いそうになった。
だが笑えなかった。
地下室の空気は妙に冷たかった。
「人間の記憶を、音として保存しようとしていたんです」
「音?」
「感情には周波数があるから」
彼女は当たり前みたいに言う。
「成功したんですか」
「半分くらい」
私は黙った。
真壁は棚の一つを撫でる。
「雨の日は、保存状態がいいんです」
「何の話です」
「記憶の」
彼女は微笑んだ。
「湿度が高いと、戻りやすいので」
私は急に寒気を覚えた。
「あなた、誰なんですか」
真壁は少し黙った。
それから静かに答える。
「たぶん、残ってる方です」
意味が分からなかった。
だが、その言葉は妙に現実感があった。
彼女は続ける。
「研究は失敗しました」
「でも一部は残った」
「音として?」
「人として」
私は何も言えなかった。
停電した地下室。
湿った空気。
無数のテープ。
全部が現実感を失い始めていた。
「私は時々、自分が本当に人間だったのか分からなくなります」
真壁は静かに言った。
「雨の日だけ、昔を思い出せる」
「晴れると薄くなる」
「だから戻ってくるんです。この町へ」
私は彼女を見た。
その横顔は、どこかノイズみたいに曖昧だった。
いや、最初からそうだった気もする。
帰り道、雨が降っていた。
私は何も話せなかった。
真壁も黙っていた。
ただ傘へ落ちる雨音だけが続く。
駅前で彼女は立ち止まった。
「忘れてもいいですよ」
「何を」
「今日のこと」
私は答えなかった。
彼女は少し笑う。
「人間は、忘れるようにできてるので」
それから彼女は歩いて行った。
細い黒い傘だけが、雨の中を遠ざかる。
翌週、私は資料館で館長へ聞いた。
「昔、この地下って研究施設だったんですか」
館長は怪訝な顔をした。
「いや?」
「記憶保存とか」
「聞いたことないな」
私は地下へ降りた。
封鎖区画の扉は閉じていた。
鍵までかかっている。
中を確認したいと言ったが、館長は困った顔をした。
「そんな部屋、ないよ」
私は黙った。
雨が降っていた。
地下の空気は静かに湿っている。
その時、どこか遠くで、カセットテープの回転音みたいなものが聞こえた気がした。
私は今でも、この町に住んでいる。
雨の日になると、時々、喫茶店で真壁を見かける。
窓際の席。
黒い傘。
静かな横顔。
だが話しかけるたび、彼女は初対面みたいな顔をする。
「どこかで会いましたか」
そう聞かれる。
私はいつも曖昧に笑う。
たぶん、雨のせいなのだと思う。
あるいは、保存状態の問題なのかもしれない。